
サントリー学芸賞&吉田秀和賞をW受賞したご存知、片山杜秀さんによる連載。昨今のオペラ界を席巻している「現代演出」。賛否両論・阿鼻叫喚の挑発的な演出が日に日に増大していく中、ふとひとつの疑問が沸き起こりました。
「オペラの現代演出って、他ジャンルの最先端の視点から見ると、果たして新しいものなの?」
この疑問を解決していただくべく、ジャンルを横断して博覧強記の執筆活動を繰り広げる片山さんにご登場いただきました。歌舞伎・演劇・アート・映画など、他ジャンルとオペラ演出を併置することで、オペラの未来を占う新型オペラ演出論。
昭和30年代はじめのことである。NHKの番組企画で作曲家たちが集まり、「現代音楽ベスト10」を選んだ。第1位に輝いたのはアルバン・ベルクの《ヴォツェック》だった。オペラである。といっても、選者の誰ひとりとして《ヴォツェック》を観てはいなかった。ミトロプーロス指揮の全曲盤LP2枚組で聴いたことはある。スコアを読んだことはある。けれども舞台は写真でしか知らない。そんな人ばかりだった。
オペラは劇だろう。舞台にかかって初めて真価が分かるのではないか。観てもいないのにベスト1に選ぶとは大それている。恐れを知らない。そう言って噛みついた音楽ファンが居たという。その批判に、選者のひとりの清水脩が答えてこんなことを言った。清水は、橋本國彦ちなみに、この清水の恩師は1930年代にウィーンでエーリヒ・クライバー指揮の《ヴォツェック》を観ているけれど、「現代音楽ベスト10」のときにはもうこの世に居なかったの弟子で、今度の6月に新国立劇場で再演される《修禅寺物語》の作曲者である。「いやあ、オペラというのはね、そりゃ観た方がいいかもしれない。でも、観なくても聴いただけで、だいたい値打ちは分かるんですよ。」
このセリフを、東京や大阪のような大都会に居てもオペラの本格的な生の舞台に接する機会がどうしても少なく、観られる演目も限られ、かといって本場に観に行きたくても海外渡航の自由がいまだ与えられていなかった、戦後初期の日本人が、プライドを保つために、背伸びして無理して口にしたものと解釈できないこともない。
が、本当にそうだろうか。清水の発言は負け犬の遠吠えにすぎないのだろうか。そういえば、ベルクの弟子として自ら作曲も行い、オペラの創作も試みたそれは未完に終わったけれど哲学者のアドルノはおおよそ次のような発言を遺していたのではなかったか。「ラジオとレコードの功績のひとつは、オペラを観なくても鑑賞できるようにしてくれたことだ。」
清水脩よりも過激な発言である。清水はオペラを「観た方がいいが聴くだけでも分かりはするもの」と位置づけたのだが、アドルノは「観ないで聴くだけに専念した方がよりよく分かるもの」と定義したのだ。オペラに舞台は要らない!
いかにも暴論である。だが、希代の知識人、アドルノが単なる滅茶苦茶を言うはずもない。そこにはやっぱり一理あるのだ。
たとえば日本の歌舞伎を思いだそう。それは、この国を代表する音楽劇であり、派手で大仕掛けなところから何から、よくオペラと似ていると称される。
すると、歌舞伎の芝居はどのように進められるのだろうか。様々な形態の演目があるから一概には言えない。でも、大筋ではとにかくそれは、役者のセリフや、下座音楽と呼ばれる伴奏音楽に注意を払っているだけでは、その流れを追いきれない具合に出来ている。要するに耳のみでは分からない。見得や思い入れといった、動作でしか表現されない箇所を、いっぱい含んでいる。バレエやパントマイムに通じる視覚的要素が、セリフや歌や伴奏音楽といった聴覚的要素と均衡し総合されて、初めて成り立つのが、歌舞伎なのだ。そんな舞台芸術は、ラジオやレコードだけでは、とうぜん鑑賞したことにはならない。生の舞台を観るか、映像で接しないと、どうしようもない。視聴覚が協同しない歌舞伎鑑賞はありえない。歌舞伎座に行って目を閉じていてはただの阿呆なのである。
であるならば、オペラの場合はどうか。どこかのオペラ座に出かけて目を閉じていても、その行為を歌舞伎座と同様に阿呆と認定できるだろうか。そうとはどうも決め付けにくい。なぜなら、一般に優れたオペラと称されるものほど、音だけでドラマの全部が微に入り細を穿って表現されているものだから。歌舞伎のように音なしで、役者のマイムとかだけで、ストーリーの要所要所が過ぎ去ってしまうことはまずはない。ここが、オペラと歌舞伎の大きく違うところだ。
モーツァルトやロッシーニなんか、「コトバ!コトバ!コトバ!」で、いやというほどドラマを説明し尽くしてくれる。聴いているだけでみんな分かっちゃう。ヴェルディとなると、「アリア!アリア!アリア!」で登場人物の感情をあまりに大袈裟にとんでもなくコテコテに表現し尽くしてくれる。声だけでもう演技が完結するように作曲されている。歌手は、ちゃんとうたってさえくれれば、あとの動きや表情はもうどうでもいいくらいのものだ。ワーグナーになれば、登場人物の一挙手一投足、場面の景色のひだの奥まで、「ライトモティーフ!・ライトモティーフ!・ライトモティーフ!」で描写し尽くしてくれる。所作も装置もあってもなくてもどうでもいい。女が飛んでいるのをイメージするのには、〈ワルキューレの騎行〉を聴くだけでもうおなか一杯で、そのうえ、市川猿之助のスーパー歌舞伎みたいに宙乗りでもやられて、ほんとうに舞い上がる姿まで見せられたら、もうくどすぎだ。
要するに、すぐれたオペラであればあるほど、視覚は余計なのだ。耳だけで情報量が足りている。オペラは、特にヴェルディとワーグナー以後はハッキリと、音楽と演劇の協業というよりも、誰よりも作曲家が主役の音楽作品として発達してしまった。楽譜に隅々まで書き尽くされ、その通りに演奏されればもう出来上がったも同然。オペラの初めはあくまで音楽+演劇であったのだが、その歴史の中で音楽が演劇を呑み込んでしまったのだ。
したがってオペラは耳でこそ味わうもの! アドルノはそういう意味で、オペラ鑑賞に相応しいのは生の舞台や映像よりもラジオやレコードだと断じたのである。あるいは演奏会形式だっていい。多くの上質なオペラは、歌手をオーケストラの前に並べて、演技も装置も衣装も伴わずとも鑑賞に耐える。アドルノ流に言えばそのほうがオペラの音楽そのものに集中できてよい。そして、そんなコンサートにも、お金を払ってお客さんが来る。そのことが何よりもアドルノのテーゼを一般音楽ファンも認めている証明ではないか。
ああ、それなのに、オペラは一方では、今日も歌劇場で舞台にかかり、その映像がテレビやDVDを通じて世の中に供給されている。いったい、なぜだろう?むろん、やっぱり音だけではおなかはいっぱいになりはしないと信じている人たちが居るからだろう。
アドルノや清水脩の見解は、本質論としては的を射ている。オペラは音楽を肥大化させることで目の楽しみまで耳に翻訳し尽くしてしまった。そのせいで本質的には舞台なしでも成立しうるものになった。音を聴き込めば、それで終われる。
でも、オペラ・ファンとは、恐らくオペラの音楽作品としての本質を知れば満足という人たちばかりでない。むしろ、なくてもいい余剰をこそ欲したがるのがオペラ・ファンの気質なのだ。というのもオペラ・ファンは概して贅沢好みなのである。
贅沢の快楽は、本質を追い求めるところには生じない。どうでもいい余剰にこだわるところから生まれる。そして、音楽作品としてのオペラの余剰とは、改めて確認するまでもなく舞台である。舞台をつくるには演出家が要る。演出家とは余剰の王である。アドルノが徹見したオペラの本質からすれば、単なる余計な世界の支配者である。
はて、余剰の王は何をするのか。何ができるのか。2つの態度に割れてくるだろう。
ひとつは分を弁えるということである。余計者は存在自体が恥ずかしい。作曲家という主人に隷属し、音符というおまんまで、ついでに食わせてもらっている。そんな「生きていてすみません」という奴が舞台をこしらえさせていただくのだ。作曲家がオペラ作曲にあたって想定していた情景を舞台に忠実に再現し、音楽作品にご奉仕し、おのれを目立たなくするのが道だろう。そういう態度の演出はしばしば「伝統的演出」と呼ばれる。
それと対立するもうひとつは、お客さんが劇場に来て目をつぶって耳だけで鑑賞してもいっこうに差し支えないのがオペラの本質なのだから、視覚的には何をしようがその本質にはついには関わらないのであって、それだったら勝手なことをした方がよいという、言わば余剰の開き直りである。そういう態度の演出は、しばしば「現代的演出」と呼ばれる。
いったいどっちがいいのか。もともと本質に関係ない余計な話なので、どうでもいいのである。若き日のピエール・ブーレーズは「歌劇場を爆破せよ!」と宣言して物議を醸したけれど、この文句を、「歌劇場で行われるいかなる視覚的演出も、音楽とは本質的に無縁であるから、歌劇場はオペラにとっての必須アイテムでもなんでもなく、むしろ音楽そのものを本質的に理解しようとする人間の試みを邪魔するだけの場所にすぎないので、ないほうがいい」という意味だと解釈することもできるだろう。
この宣言以来、オペラの舞台は、オペラの本質から最終的に追放され、オペラ演出家は野に放たれ、化外の民となったのかもしれない。そして化外の民からは、「余計者ですみません」という謙虚な人よりも、「どうせ余計者なら無法者になってやるよ」という勝手な人が増殖していった。「伝統的演出」よりも「現代的演出」が幅を利かせるようになっていった。それが、本質を突き詰めるよりも余剰に溺れたがるオペラ・ファンの贅沢気質と共鳴して、ついに「演出の時代」を到来させてしまったのだろう。
たとえば歌舞伎においては、視覚と聴覚はどちらも本質に関わり、歌舞伎の快楽は両者の相乗を味わい尽くすことから生まれる。対してオペラにおいては、聴覚が本質で視覚は余剰であり、したがって舞台は余計なはずなのだが、オペラの快楽は贅沢と結び付かずにはありえず、贅沢とは本質よりも余剰によって満たされるから、けっきょくオペラの快楽とは、どうでもいいはずの舞台を切り捨てるどころか、むしろそちらに目を奪われることで満たされてゆく。
かくして、オペラ・ファンはアドルノやブーレーズの眉をひそませる存在であり続け、オペラ演出家はそこに便乗して果てしなく増長するだろう。
あなたも、どうでもいいものを愛でろ!
第1回・了


片山杜秀
1963年生。文筆と教職で暮らしている。著書に『近代日本の右翼思想』や『音盤博物誌』などがある。朝日新聞、読売新聞、産経新聞、共同通信配信地方紙、『週刊SPA!』、『中央公論』、『東京人』、『レコード芸術』、『CDジャーナル』、『音楽現代』、『グラモフォン・ジャパン』(という音楽誌があったのだ)、『プレミア』(という映画誌があったのだ)、『メグ』(というアニメ誌があったのだ)、『ベンチャークラブ』(という経済誌があったのだ)等にレギュラーで執筆してきた。
趣味は、映画やテレビドラマの録画、ネットラジオの聴取、古書漁り、音盤漁り、観劇、中古安物本棚漁りなど。録音や録画に失敗すると地団駄を踏んで悔しがる。最近はセロツキの交響曲第1番を聴き逃したことを気に病んでいる。マヨネーズ以外はたいがい好んで食べる。北方志向で北進すると喜ぶが、しばしば体がついていかない。冬のハルビンの寒さに耐えられず、卒倒したことがある。